黄瀬川に登場するまでの
義経について、▼主に女性の繋がり・婚姻・
後宮など女性を中心とした人間関係から分析し、一般貴族といってよい人物であったこと、奥州下りも、高倉範季や
源頼政との関係との近い(これを近いというのはやはり、女性の繋がりがないと考えもつかない)関係から、ある一定の意図すらあった可能性を示唆している。▼なんといっても「
伯耆王子」「平泉姫宮」そしてその曾祖母にして
源義親の妻だった「資隆入道の母」といった初めて知る存在がたいへん興味深い。▼また、
常磐が、「九条院雑仕」とはいえ、「美女」として、女房に准じ、義朝が近づいたのは九条院が国母になる可能性があったなか政治的な意味があり、その後も、鳥羽・美福門院・忠通ラインに連なる意味を持ったことで、決して頼朝の母と比べ身分違いということもなかったこと、▼頼朝の母の熱田大
宮司家は、高倉家にも近く、
尾張三河に留住し、京に進出する上で、やはり大きな意味を持ったであろうことなど、義朝は決して非政治的な人物ではなかったことも描かれている。