▼山科家が内蔵頭を
世襲したことで供御人を組織していたことが、荘園が「飛行(ひぎょう」した後も家計を支えることにつながったとし、日記から中世都市経済や座・率分関をめぐる一条関白家などとの争いなども描かれている。▼中心となるのは、
細川晴元・
三好長慶などと
足利将軍家・
一向一揆・
法華一揆などが絡む京都争奪戦で、京都近郊に築かれた城郭についても触れられている。
細川晴元というのは、なかなかの策士のようだ。晴元政権は、木沢長政など荘園制に温和な
畿内系と急進的な三好など阿波系の連合政権で、
一向一揆を使って高国を破って擁立してくれた
三好元長(長慶の父)を破り、
法華一揆を使って
山科本願寺を焼き討ちにする。義維を見限り義晴につく、など。また、
三好長慶は、裁許状などから将軍の権威を否定して統治したが、京都の支配権も維持できず、近江逃亡中の将軍が守護補任権を保持していることもあり、言継は将軍系の裁許状を求めて近江に雑掌を派遣している。意外に将軍の権威は強く、信長が在京せずに義昭を操ろうとしても、しょせん無理だった、ということだろう。