鎌倉武士の実像 石井進

▼A=国司軍、a=「館ノ者共」、a´=「国ノ兵共」、α=私的従者、α´=在庁官人・書生、B=地方豪族、b´=同盟軍、b=直属軍というもはや古典教科書的権威とも言える図式。▼常陸国の元応元年(1319年)の古文書で、α´61人を在庁と供僧グループとに分類し、在庁は、掾官、中座、書生、一分、国舎人・国雑色等の五種類に分類される。a´「国ノ兵」は健児制との関連を示唆。国衙の譜第図に載せられ=武士身分としての認定、国司館の結番・大狩への参加・一宮などへの神事奉仕を行った。▼院政期は、天皇・院が「人間」となった時期。呪術を恐れなくなり、似絵が成立。貴族層が日記で批判する対象にも。かえって鳥羽院のように自らの権威付けに血統ではなく、神と結びつけるようになった。保元の新制「九州の地は一人の有つところなり・・」は、律令国家的発想ではなく、一国平均役の体制化など、新たに形成された荘園・国衙領域支配に対応したもの。▼地頭の開発。東国から来た武士は、低湿地での開発技術を持っていたため、西国の領家支配域が谷間だったのに対して、川沿いを開発。