▼男色を扱った「
院政期政治史断章」が出色。「あとがき」での「一時期
院政期社会への興味を失った」ことについて、棚橋光男は、『
後白河法皇』のなかで批判的に触れているが、やむを得ないのでは。それにしても、家成一門を諸大夫と軽蔑し憎みつつ、男色の対象にしていくという、頼長の政治的行動、というのは興味深い。▼「
院政期
知行国の変遷と分布」では、「
公卿補任」に見える清盛の九安二年の任安芸守について、
摂関家の
知行国という観点からおかしいとし、教盛の任淡路守の仁平元年とし、忠盛が播磨守を辞し(
藤原忠実が安芸から播磨に
知行国が変わり)、淡路は、引き続き忠実が
知行国主だが、教盛の母は、家隆(忠実の近臣)の娘で頼長の従妹、教盛は
崇徳院の給で仁平3年に
従五位上に叙されている、として、清盛の任安芸守は仁平元年としている。しかし、そうなると、
保元の乱では、頼盛だけでなく教盛も院方につく可能性があったわけだ。