法華経入門 菅野博史

法華経入門 (岩波新書)

法華経入門 (岩波新書)

皆を伏し拝む常不軽(じょうふきょう)菩薩という存在が宮沢賢治の「雨ニモ・・」の「デクノボー」であるらしい。賢治の法華経傾倒は有名だが、この詩も文学的価値よりも宗教的心情の吐露・宣言と読むべきらしい。▼法華経釈尊を中心として諸仏を統合する狙いがある▼声聞・縁覚・菩薩それぞれに道を説くが、これは方便である、三乗方便・一仏乗。▼釈尊の涅槃入りは、信仰心を高めるための方便。「良医病子(ろういびょうし)」の譬喩。以下、法華経の譬喩を。▼「三車火宅」火事の家から子供を救い出すために、羊車(ようしゃ)鹿車(ろくしゃ)牛車(ごしゃ)があるぞと誘い出し、実際に与えたのは大白牛車(だいひゃくごしゃ)。三乗方便の思想を示す。▼「長者窮子」(ちょうじゃぐうじ)著者は一番価値を置いているみたいだ。親から逃げ変わり果てて心も濁り、親の長者を見てもわからないような子に対し、すぐに名乗らずに仕事を与えて少しずつ成長させ、名乗りをあげる。声聞たちが、「三車火宅」の譬喩で一仏乗理解したとして釈尊に語った譬喩で、子が声聞・長者が仏。聖書の「放蕩息子」と似ているが、仏教では仏の慈悲に基づく衆生の教化と衆生自身の修行が重視されているのに対し、キリスト教では神の絶対的恩寵が人間救済の根拠とされる。▼「良医病子」父親の留守中に毒を飲み本心を失った子供は父親の作った薬の色・味・香りのよいことに気付かず薬を飲まない。そこで父親は再び旅に出て使いに「父は死んでしまった」と告げさせる。子供は悲しみの余り目が覚めて薬の色・味・香りの良いことに気付き薬を飲んで回復する。そこに父が帰宅。見仏。▼「化城宝処」三田誠広の『頼朝』にも出てきた含蓄ある譬喩。余りに遠く辛い道のりに宝までとても辿りつけないと引き返してしまおうとするとき、幻の城市をつくり、休息させ、また消して励ます。「宝の場所は近くにある。この城市は真実ではない。私が化作(けさ)しただけだ。ここにとどまってはいけない」。『頼朝』では、休息させる場所としての側面は強調されていたが、とどまってはいけない、という側面はどうだったかな。