モンゴルの襲来 近藤成一・編

日本の時代史 (9)  モンゴルの襲来

日本の時代史 (9) モンゴルの襲来

▽モンゴルの襲来 五摂家の成立は一つの家が五つに分裂したのではなく、これまで分裂・拡大が当然であった摂関就任資格者が五つの系統に限定されたこと。兄が弟を、叔父が甥を養子にすることで直系系譜が創出された。
Ⅰモンゴル時代のアフロ・ユーラシア モンゴル襲来のさなかでも日本の民間貿易船は南中国の港で取引を許され、平時と変わることはなかった。日宋貿易をはるかに上回った。
鎌倉時代の歌壇と文芸 鎌倉後期に持明院統大覚寺統と皇統が代わるたびに勅撰集が編まれた。両統迭立と歌道家の分裂が絡まり、京極=持明院、二条=大覚寺、冷泉=関東のつながり。歌集の配列も、歌も季節感を高めていくように、歌人は二条流であれば巻頭に俊成・定家・為家・為氏・為世の誰かを必ず置く。後鳥羽時代も後嵯峨時代も流派対立はあったが、治天の君は超越した存在だった。歌道家の分裂が皇統の分立に結びついたために、上皇天皇は対立抗争勢力の頂点とならざるを得なくなった。
Ⅲ中世人の生活と信仰 使い勝手の悪い素焼きの土器が好まれたのは、一回だけの使用、女性をシンボライズ、酒が染みこむことは神が飲んだ、神の食器。検断で家を焼くのは、けがれを払う行為。空き家には天魔が棲む。鎧など武具を魔除けに置くことも。
鎌倉時代の社会と領主制 主人は従者の知行を、知行の正しさではなく忠義を尽くすことを理由に保護しなければならない。逆に従者側は保護してくれる主人を選ぶ。その土地を争っている者は別の主人を選ぶ。最後は戦で決着がつく、というわけ。執権政治確立後、将軍には「安堵」だけで「裁許」という行為は許されなかったのは、対立する当事者の理非を判断する行為が裁許だから、主人が従者の相論を裁許するのは困難。主人の従者に対する保護義務に反するから。執権は御家人の一人で保護義務に拘束されない。執権政治は、訴訟の裁許が最大の政治課題という社会に対応した政治形態。訴訟では、悔い返しが行われたとき、主人の安堵下し文の有無は譲り状の有効性とは本来的には関係しない。安堵は主従関係の存在を確認する行為であり、従者の知行の正当性を証明するものではないから。