南北朝の動乱 村井章介・編

日本の時代史 (10) 南北朝の動乱

日本の時代史 (10) 南北朝の動乱

南北朝の動乱 後宇多の皇太子に後深草皇子熙仁(伏見)を立てたのは文永の役の翌年で、南北朝分裂の起点となったこの立太子も、朝廷の内部対立を抑えて総力を対外戦争に振り向けようとする幕府の政策の一環であった。後醍醐は大覚寺統でも「つなぎ」であり、つなぎに甘んじない限り幕府や持明院統、後二条流も否定しなければならないことで、マキャベリストとなる。後醍醐は、花園や北畠親房のように「有徳」に立たない。花園が『誡太子書』で、万世一系に寄りかかった言説を「諂諛の愚人」として退けるのに対し、後醍醐は自分の血統に拠って立つ。そうした超保守的・反動的な後醍醐の方が、進歩的?な花園よりも、倒幕という意味では、世の流れに応えていた、というのも皮肉だ。
▽Ⅰバサラと寄合の文化 疫病を追い払うためにいような姿態と異形の面を着ける、穢を清める人々は、「過差」にとらわれない、というかつての古代から中世にかけての意識が、鎌倉後半から変化する。穢の除去は狭義の非人である乞食やらい者の職能となり、祭礼で華美な装束をつける意義も低下し、反社会的な行為=バサラ=金剛石=全てを砕く=秩序を打ち破る、という連想となった。
▽Ⅱ悪党と宮たち かつて武士の領地は「職」の形で、全国に分散していた。惣領は根本所領にいて庶子を遠隔地に分住させて経営にあたる、ということで惣領制は対応していた。それが南北朝期になると庶子が分離独立、一族挙げての移住など一定の地域で支配を強化し土地に密着するようになる。列島全体の動きが止まり、動く部分が少なくなると、動く民に依拠してきた南朝の基盤も狭まった。