闇の歴史、後南朝 森茂暁

闇の歴史、後南朝  後醍醐流の抵抗と終焉 (角川選書)

闇の歴史、後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉 (角川選書)

南北朝合一後の後南朝の動きを資料の制約の中、ていねいに描いている。そもそも義満が両統迭立をいったんは条件としたことにみられたように、鎌倉から室町にかけて、迭立が原則で、合体後も大覚寺統を維持しようとしていた。このあたりが、反幕府勢力から付け込まれることとなり、義教の「南方一流は断絶さるべし」という方針転換につながっていくか。
大覚寺統全てが反幕府的であったわけではない。後亀山は合体時の迭立の約束が果たされないことに憤りを示し、小倉宮(孫の聖承)は活発に皇位に向けて動き、正長には出奔し北畠氏を頼る。
▽合体の儀に参加しなかった長慶天皇流や弟の護聖院宮の流れ、後二条流は幕府に協力的で、護持僧を出したりしている。ただ、護聖院宮の孫の通蔵主・金蔵主は、日野有光や旧南朝に担がれ「禁闕の変」で殺される。奪われた神器は、旧赤松家臣の活躍と大和の国人(大和なら国民か)の連携で取り返される。正長の際に北畠をとりなした赤松・嘉吉の時には逃げてきた赤松を庇わず見殺しにした北畠となかなか人間関係は入り組んでいそうだ。
応仁の乱で、西軍に迎えられた後南朝の子孫は、山名宗全の死後、どこへ行ったのだろうか。後南朝が資料に最後に見えるのは、文明11年で、越前、甲斐、伊豆などに流された記事がある程度と。