一揆の時代 榎原雅治・編

日本の時代史 (11) 一揆の時代

日本の時代史 (11) 一揆の時代

1379年の康暦の政変(細川頼之の追放)から、1493年の明応の政変細川政元による将軍・足利義材の追放)までの「やや長めの室町時代」が対象。
一揆原理自体が専制的性格を持つ(衆議への絶対服従が強制される→合意を経ているのだから専制も正当化される)として、一揆と絶対権力との関連を分析する。室町幕府は、臨戦体制であり、その下に守護たちが結集していた。一揆の多くは外の集団に対する極度の緊張関係を契機に結ばれている。室町幕府は、関東との緊張関係を前提として、①無用の対立を回避するにせよ、②徹底的な対決を選択するにせよ、鄯公方に協力するにせよ、鄱掣肘を加えるにせよ、一致して幕府の安泰を図ることに諸大名の結集する最大の動機があった。それが、持氏の死で最大の脅威が去り、後花園天皇に女子が生まれたことでいずれ男子が生まれると、後南朝の即位の可能性が遠ざかり、当面の危機がなくなると安堵感が諸大名の結集力を弱め、義教が暴走しても、合議に拠って公方に諫言するちう危ない橋を渡る者はいなくなった。
▽Ⅱ室町時代の経済 座の形成は、音声と記憶で形成・維持される「古実」「古法」という自律性が失われ、成文化、権力(本所など)の裁判を仰ぐようになることと、文書の証拠に基づく公権力の最けつん服属していく流れと同じだとする。貨幣も、かつて、1枚1文で通用していたこと、「島銭」と呼ばれる14世紀に日本で造られた奇妙な私鋳銭は、鏡文字だったり、文字の体をなしていないものも。円形の金属片の中央にある四角い穴の上下左右に文字があればいい。それが15世紀になると撰銭が始まる。文字にこだわる風潮の始まりか。呪術目的で礎石に埋める(「太平銭」など)がことがきっかけか、と分析されている。
▽Ⅳ室町文化とその担い手たち 雅楽で、持明院統の正統である光厳、崇光はいずれも琵琶を学び、御遊という公的な演奏の場でも琵琶だったために、天子の楽器は琵琶とされた。持明院統でも傍流の花園・光明は龍笛南朝による北朝上皇・皇太子連衡により急きょ即位した後光厳は、僧になる予定だったので、管弦の素養がなかった。琵琶には熱意を示さず、琵琶始の翌年の1358年に地下の楽人・豊原龍秋を師範として笙始。以後、後奈良まで天皇の楽器としては笙。琵琶の修練を続ければ、光厳や兄崇光の下風に立つことになり、自らの天皇位を中継ぎにおとしめる危険があった。一方で、龍秋は、1334年に、足利尊氏が師範として笙始を行っている。後光厳にとって笙を選ぶことは、光厳・崇光の影響を脱すると共に武家の庇護を期待したものだった。そして、足利義満は、龍秋の子の信秋を師範として笙始を行い、同じ師範から3年半も早く笙始を行っていた後円融を追い抜いて秘曲の伝授を受けた。その後は、笙に関して一切を取り仕切り、後円融の秘曲伝授や、後小松の師範に自らの弟子の量秋をあてるほど。
和歌では、後光厳時代に、一代で2回の撰集は、それぞれ尊氏・義詮が執奏者で将軍一代に一度を意図していた。後光厳の歌風もそれまでの持明院統伝統の京極流から、大覚寺統に接近し後、尊氏義詮に近づいた二条流に変わった。また、京都の幕府があったことで、武家も文化を受容し、応仁の乱後、守護が在国することが、貴族の地方下向や連歌師による文化の地方伝播の前提となった。