東国の兵乱ともののふたち 福田豊彦 

東国の兵乱ともののふたち

東国の兵乱ともののふたち

「Ⅱ 馬と鉄と北の世界」が興味深い。
▽「東国のつわものと馬」東国で特別に発達した国家の馬牧が貢納請負制度と公私混淆の時代風潮の中で「兵」の温床となった。
▽「鉄と平将門」製鉄事業は直接の工程だけでなく、砂鉄や鉄鉱石の採取、大量の木炭製造(生鉄の生産にも駄数にして砂鉄の3,4倍、鋼の生産には10余倍が必要)、炉材粘土の採取、膨大な輸送力の確保と多様な労働の編成が必要。9世紀の製鉄炉が発掘された茨城県八千代町尾崎は、飯沼の入江が通風路となって自然風を利用する構造となり、近くの地名大間木は兵部省牧の大結(おおゆい)の牧があることを示し、輸送力が確保されていることを示す。
▽「北の鉄文化」諸国で製鉄が進んだことにより延喜式では1鋌=稲5〜7になったが、陸奥・出羽は14と倍。元慶の秋田城の焼失の際の武器も甲は皮、冑も6割は木の鉢だった。因みに、主産地の石見・出雲・安芸が4、畿内・近江・美濃・伊豆・相模が5、尾張三河遠江駿河・その他の関東が7でほかは6が多い(土佐は10だったか)。また北海道に住むアイヌを交易民と捉えなおす支店の重要性が強調される。擦文土器の消滅がアイヌ文化へ、というのは、土器製造技術を駆逐するほどの鉄の交易が前提であり、鉄産地・南部との関わりも考えられる。藤原基衡の荘園の年貢のうち、出羽・大曽根荘は、アザラシの皮が含まれていた。アイヌとの交易が前提である。「北海道に住むアイヌを交易民として見直し、東北地方をその接点として位置付ける視覚が必要」だとしている。頼朝の奥州征伐も、北方の取り次ぎ役の地位を藤原氏から奪いたかったのだと。