革新自治体その構造と戦略 サンケイ新聞地方自治取材班

革新の灯台といわれた蜷川京都府政の検証と、イタリア・フランスの革新自治体の取材報告とからなる。蜷川府政の検証が圧巻である。戦後次々に誕生した革新自治体がその後高度経済成長の矛盾が頻発(その頃誕生した飛鳥田・横浜市政がいわゆる革新自治体である)するまで崩壊していったのに対し、なぜ京都だけが維持されたのか。▽初期に府庁職員の派閥を徹底的に解体、トップの副知事を解任。▽知事権限を使って保守系議員を手なずけ府議自民党会派を分裂させ、与党会派を作る。▽地方事務所を通じて自治体首長などの情報収集=反中央ではあっても反府庁は認めない。野中広務が目撃した昭和39年3月、久御山町長の詫び証文事件。▽民商を通じれば公的融資が有利になり、税金が安くなる。府側は否定するが少なくとも府民はそう受け取る。人事異動で府税事務所は共産系職員が多くなり、民商が抗議に行かなくなった。イタリア・ボローニャ市の地域評議会は、横浜市の1万人市民集会→区政評議会構想や岩手県衣川村の百人委員会などのもととなったが、議会勢力を反映した選出や議会との権限などの問題も。また、いわゆる市民党について、フランスと鎌倉の例から、「市民党は市政に新風を吹き込む”触媒”としての機能を果たすが”権力者”となったとき自らの機能を失う宿命を背負っている」と。