律令国家と天平文化 佐藤治・編

日本の時代史 (4) 律令国家と天平文化

日本の時代史 (4) 律令国家と天平文化

▽「Ⅳ 奈良仏教と民衆」
律令国家は、実際に社会変動が起きたときには、神祇に頼っていることのほうが多い。ではなぜ仏教の興隆を熱心に図らなければならなかったのか。新たに構築された律令体制において、天皇の地位をどう位置付けるか、という問題が根底にあった。従来の大王は、伝統に支えられた最高の祭祀権者だが、祭祀体系の異なる地域の民衆(小帝国を目指す以上、当然支配しなければなるまい)にとって、どれほどの影響力があるか→体系化された論理を有する世界宗教としての仏教の普遍性に着目したのだ。国土安寧の大前提として、国王の仏教への信仰を強調する金光明経など具体的に国王の存在とその役割に触れた護国経典の意義が出てくる。
▽「Ⅵ 古代文学と律令国家」
四季を愛でるのは日本古来からと思われてきたが、実は万葉集で天智朝以前は極めて少ない。呪術的自然観から解放された漢詩の隆盛=律令国家の求める漢文への素養=以降のことである。
古事記の皇統観も独特。直系の子孫に皇位を伝えられる天皇とそうでない傍系の天皇がいて、前者と後者の違いは、皇女妃所生であるかどうかと。仁徳朝を否定的に扱うのは、子孫が皇女妃所生でなかったからで、継体が応神5世の孫というのは武烈間での仁徳朝の世代の数にあわせ、継体への皇位継承を必然化し、天武の父である舒明を保証する。
▽「Ⅶ 古代日本と蝦夷・毛人、東アジア諸国
化内と化外にわけ、化外は、隣国=唐、蕃国=新羅、そして夷荻。
俘囚の徒民は唐が高句麗の遺民に対して行ったことを真似たか。
703年に来日していた高麗若光(こまのじゃくこう)に「高麗王(こまのこにきし)」の姓を与えて化内民として高句麗王を位置付ける。
藤原仲麻呂政権で息子・朝獦が桃生城・雄勝城を造り、多賀城を壮麗に改修する。
この時代の国際関係での渤海の存在は大きい。日本にとり、新羅に代わる朝貢国で、その存在が、北方の黒水靺鞨をサハリン・北海道へ進出させ、サハリンの流鬼は黒水靺鞨を通じて唐へ朝貢大伴古麻呂の朝儀での席次争いから遣新羅使が王に会えずに返されると新羅との関係も悪化。朝鮮半島沿岸を通れなくなったことで遣唐使などの漂着に備え奄美など南島に牒(ふだ)を立てる。
桓武期に東夷の小帝国は絶頂となったがその後は、新羅の「大国」意識、渤海は貿易主体、蝦夷は内民化、南島への関心の消滅から、小帝国の構造は破綻していく。