アジアのなかの中世日本 村井章介

▽「Ⅲ 中世日本列島の地域空間と国家」
1380年の胡惟庸の謀叛が発覚した。北元に兵を請う一方、日本にも明州衛指揮・林賢を遣して出兵を促し、日本王に精兵400と火薬・刀剣を出させて如瑤なる僧を正使に仕立てて入貢を装い、明に送り込んだ。そのときは惟庸が処刑された後で計画は未発、洪武帝も謀略に気付かなかった。6年後に事件の全貌が明るみに出た。懐良にとって、壊滅寸前の征西府立てなおしのために、明の反王朝勢力と結んで状況を一気に逆転させようとする大「博戯」(懐良の国書に出てくる表現)だった。
▽「Ⅳ 高麗・三別抄の叛乱と蒙古襲来前夜の日本」
反蒙救国を唱えて立ち上がった三別抄は急速に勢力を拡大し、珍島に「遷都」したが、内部には首領・裴仲孫のような動揺分子(占領地を蒙古に直属しようと申し出る)も含んでいた。そのための内紛で勢力が衰え、珍島を奪われて耽羅に移る。思想的には強固になるが政治的には、高麗国内への影響力は小さくなった。
「Ⅸ 《倭人海商》の国際的位置」
「夷千島王」と対称的な位置にある南海上にあると称する「久辺国(久米島からの連想か)主李獲」が1478年と1482年(夷千島王の年)に朝鮮に遣使、大蔵経を要求した。朝鮮を大国と持ち上げているが、単に「経済的利益を手にするためには政治的従属に甘んじることもいとわなかった」だけで、倭寇の襲来を恐れ、徳治主義の建前にこだわる朝鮮側に横車を通している。《倭人海商》は日本という国家に対する帰属意識から”自由”だが朝鮮側の事情には全く配慮がなく、15世紀、交易の規模が拡大するほど財政事情の悪化に悩む朝鮮との関係は緊張し、やがて1510年の三浦の乱、文禄・慶長の役へと破局へ突き進む。