最後の
遣唐使となった承和の第17次
遣唐使(承和元年=834年大使任命、承和3年第1次
渡航失敗、承和4年第2次
渡航失敗、承和5年副使
小野篁の
渡航拒否も出帆。承和6年大使帰着)とその背景を記述している。白眉はその背景を解説した第4章「九世紀の東アジアと
遣唐使」である。円仁の『入唐求法巡礼行記』にも登場する史生の越智貞原(おちのさだはら)は、後に
隠岐守となるが、
貞観8年(866)10月に
新羅人と反逆を謀っていると密告される。この年は
新羅国内で叛乱が相次ぎ、11月には
日本海側の諸国で警戒を強め、4か月前の7月には、
肥前基肆郡の擬大領・
山春永(やまのはるなが)が
新羅に渡り兵器を造る技術を学んで
対馬を撃ち取ろうとして密告される。
貞観11年には太宰少弐・藤原元利万侶(もとりまろ)の叛乱計画事件が起きている。彼は、薬子の兄・仲成の甥にあたり、大隈守・藤生(ふじお)の子という没落家系の出。
円珍が唐から帰国し天安2年(858)12月に京都に帰ったあと、右大臣・良相が
円珍を慰問する使者の右京少進として登場する。そこから著者は、彼が「承和の
遣唐使の例えば史生などの下級役人として入唐した経歴の持ち主だったと推定」している。
張宝高と文屋宮田麻呂の件は、以前にも知り、興味を持っていたが、元利万侶はそれ以上に魅力的に感じられた。
張宝高が篁の父と知り合いであれば、篁には大陸の情報も集まり、当然、
遣唐使のむなしさを感じていただろうことから、
渡航拒否の真意を推測している。またそうした状況で政府が
遣唐使を強行したのは、
律令国家から
鎮護国家へとの流れの中、
真言宗の強い求めに応じた良房の意向ではないかとしている(唐の皇帝の勅書は良房が預かっている)。となると、篁の反発は良房や
真言宗に対するものかもしれない。