日本の原像 平川南

日本の原像 (全集 日本の歴史 2)

日本の原像 (全集 日本の歴史 2)

「おわりに」にあるように、「網野(善彦)は、九世紀以降、律令国家の崩壊の兆しとともに、海上交通、東西意識、生業の多様化などが顕著に表面化してくるという。しかし、本書において幅広い資料からの検討を加えた結果、律令国家の成立当初から、その枠組みのなかで、古代社会の地域交流・生業の特化などが活発な動きを示していたことが明らかになってきた」に尽きる。▽例えば海上・水上交通は、律令国家側も十分に意識しており、思川の寒川郡・北上川の磐井などの第二河口が活発に活動している。▽東西では、東の国名は、近江・遠江・武蔵(六つの国に向き合うとか、道が交差するとか)など中央からの視点で付けられている。▽信濃の麻布・丹後の塩生産など奈良時代にすでに特産品の生産が盛んになっている例をあげ、『続日本紀』などにあげられている「調庸物の麁悪・未進・違期」を、「良質なものは高価な商品として各地に出荷され、質の劣るものは工場に労働提供した布手たちの名のもとに、調庸布として都に貢進されたのであろう」は、卓見か。▽漢字について、郡書生層の受容の程度の低さ(数字の「大字」の誤字)や、中国で用いられなくなった則天文字(唯一現在も使用されているのは「圀」だそうだ)が各地の土器から出土するというのも興味深い。