▽明が貨幣の価値を保証しなくなり、信長が発した撰銭令は、権威としての不十分さから浸透せず、
畿内では米が通貨となった。米がだぶつき物価が下落「不況」という事態になった際、秀吉の
九州征伐や
小田原征伐は、大量の米が軍需に回り、金や銀が通貨として使われ浸透していくきっかけとなった。また信長は「
楽市楽座」で知られるが特権商人を保護し、京の七関も維持されていた。秀吉は、当初は特権を保護していたが、1583年、公家の薄諸光(すすき・もろみつ)が諸国の牛博労から役銭を徴収しようとしたのを3月にはいったん許可したのに、許可証は偽物だとして諸光を逮捕、10月に処刑する。京七口・兵庫関・今津など交通要衝の関銭徴収も同時期に停止する。▽後期
倭寇の結果として明が
海禁政策を緩めると中継貿易に頼っていた
琉球は衰退して薩摩への依存を強め、
対馬は朝鮮貿易にしがみつかざるを得なくなる。中国商人は
アメリカ大陸からの銀の航路があるフィリピンに集まったが、日本にも銀を産することで寄港は続いた。▽「服属
儀礼と城郭の障壁画」では、
狩野派の画論として「山水・人物・花鳥」の順を紹介している。
江戸城では最高権力者の私的空間である黒書院・
親藩譜代の場である白書院・外様の大広間との格付けに対応している。
安土城天守最上階の中国故事のコンセプトは御所紫宸殿の「賢聖障子」に直結し、一種の転写である、と。