天下統一と朝鮮侵略 池享・編

日本の時代史 (13) 天下統一と朝鮮侵略

日本の時代史 (13) 天下統一と朝鮮侵略

▽明が貨幣の価値を保証しなくなり、信長が発した撰銭令は、権威としての不十分さから浸透せず、畿内では米が通貨となった。米がだぶつき物価が下落「不況」という事態になった際、秀吉の九州征伐小田原征伐は、大量の米が軍需に回り、金や銀が通貨として使われ浸透していくきっかけとなった。また信長は「楽市楽座」で知られるが特権商人を保護し、京の七関も維持されていた。秀吉は、当初は特権を保護していたが、1583年、公家の薄諸光(すすき・もろみつ)が諸国の牛博労から役銭を徴収しようとしたのを3月にはいったん許可したのに、許可証は偽物だとして諸光を逮捕、10月に処刑する。京七口・兵庫関・今津など交通要衝の関銭徴収も同時期に停止する。▽後期倭寇の結果として明が海禁政策を緩めると中継貿易に頼っていた琉球は衰退して薩摩への依存を強め、対馬は朝鮮貿易にしがみつかざるを得なくなる。中国商人はアメリカ大陸からの銀の航路があるフィリピンに集まったが、日本にも銀を産することで寄港は続いた。▽「服属儀礼と城郭の障壁画」では、狩野派の画論として「山水・人物・花鳥」の順を紹介している。江戸城では最高権力者の私的空間である黒書院・親藩譜代の場である白書院・外様の大広間との格付けに対応している。安土城天守最上階の中国故事のコンセプトは御所紫宸殿の「賢聖障子」に直結し、一種の転写である、と。