戦国期公家社会の諸様相 中世公家日記研究会

戦国期公家社会の諸様相 (日本史研究叢刊)

戦国期公家社会の諸様相 (日本史研究叢刊)

三条西実隆(『実隆公記』)・鷲尾隆康(『二水記』)・近衛尚通(『後法成寺関白記』)という戦国期を生きた3人の公家の日記から、公家の家計の状況や所領支配・交際や公武関係を探った専門書。▽「第一部 公家領と家産経済」では、「雑事要録」「雑々記」の記事などから、米1袋が5斗、職人の手間賃は1人1日110文という数字を割り出している。越前国宇坂庄は朝倉氏の本拠・一乗谷に近いにもかかわらず、近衛家が経営できた理由として、毎年秋に大江氏を定使として派遣し年貢の催促を行っていたこと、朝倉氏の有力被官と考えられている加治氏(能登入道)の娘が大江俊宣の養女として政家の側室となり次の当主・尚通を産むという姻戚関係があったことが挙げられている。そして宇坂庄の公事物である「綿」について政家は、兄弟や家政職員に配る際、明応7年までは1屯=200文、明応8年からは1屯=100文で計算している。世知辛い、か。▽「第二部 公家社会の交流」三条西実隆の書状から、任官しながら拝賀をしない風潮が出てきている。近衛尚通の娘で稙家の姉が北條氏綱の後室となっていた。享禄元年から天文元年までの尚通の日記では、北条氏からの黄金などの贈り物の記事が増える(とくに天文元年四月二十六日条)。近衛家には風呂があり、『洛中洛外図屏風』にも描かれた名物の糸桜があるが、風呂や花見などでの交流は、政家から尚通になると、将軍や細川家など上級武士の割合がずっと増してくる。近衛家の娘は嫡女が御霊殿奥御所となるほか、寺に入るなど未婚だったが、理由は家格があわないことによる。そうしたなか、九条家から細川家に養子に行き、近衛家から義晴・義輝と2代にわたって嫁いでいるのは、当時の公武関係をうかがわせる。▽「第三部 公家と武士」では、京都宇治を日野富子が参詣した際、羽戸縄手道路の清掃をめぐって宇治郷民と三室戸郷民とが争い双方に多数の死者が出た。「道路の権益を含む郷村の境界争いが原因と思われる」と。▽「第四部 宗教と文化の世界」では、法華一揆について、当時の日蓮宗の寺は上京からも下京からも離れて立地して「寺内」を構えており、一揆の主体も寺内の住民でそれに下京の信者も参加する、という形式ではないか、と町衆の自治との観点で問題提起している。また「国家的・公的要素の強い古代文化に対し、中世文化は私的である」として、古典研究や管弦について、天皇や公卿各当主を中心とした「内々衆」などの側近集団で行われたと指摘している。