天保改革 津田秀夫 

天保の改革は、世界から孤立して存続する近世国家の解体を食い止めるために、「外患」に対応しつつ、財政危機、農村の荒廃などの「内憂」に向き合うものだった。水野忠邦の存在が大きいが、将軍家慶の指導があり、また水野と同時に言われる鳥居耀蔵については、江川英竜らと並行して起用され、蘭学を活用しようという面があった。しかし商業統制は、専売制など藩独自の経済圏構築の動きから抵抗を受けるなどうまく進まない。上知令は、新潟も江戸や大坂と同時に出され、これは実施されていることを指摘している。富国強兵策を狙った、封建体制下では改革目的はそれなりに意義のあったものだったのだろうが、人間性否定の取り締まりが強い反発を受けたこともあって失敗する。表現として、江戸っ子が宵越しの銭を持たないのは、貨幣改鋳が繰り返されたことでインフレによる目減りを恐れたもの、とか、頼山陽の志向について「怨念とは果たさるべきもろもろの可能性が、果たされないために生じた」とか、うまいことをいうものがある。