老中は、将軍の側近という位置付けからスタートしたので、四天王家などは家格が高すぎて就任があまりない。
大老は、少将が前提で、井伊家は少将の家柄だから幕政に関与するとなると
大老、となる。下馬将軍
酒井忠清の逼塞で
雅楽頭家が家格を落としたために酒井家からの
大老は幕末まで出なかった。少年で将軍となった家綱のころから、幕政の切り盛りの要素が強くなり、傍系から入った綱吉は、
譜代大名に側近がいなかったために
奏者番や
寺社奉行・
京都所司代などを務めた者から老中を選び、老中への出世コースができ始めた。吉宗は積極的に
譜代大名を登用するようになり、後には左衛門尉家のように、家格が高くても老中を務め
鶴岡藩の財政を窮迫に追い込むような例も。ペリー来航時の幕閣は弱体で、諸大名に意見を求めざるを得ず、家門大名は幕政から隔離されていたので
政治責任の観念がなく、完全に反対勢力に回ってしまった。中小
譜代大名の老中たちが幕政を切り盛りできたのは、将軍の権威が背景にあったから、と結論付けられる。