開国への道 平川新

開国への道 (全集 日本の歴史 12)

開国への道 (全集 日本の歴史 12)

3人の人物に興味を覚えた。▽フヴォストフ襲撃事件「文化露寇」の影響で捕らえられたゴロヴニンの解放交渉で函館に赴いたリコルドの通訳キセリョフ。完成6(1794)年にアリューシャンに漂着した石巻の若宮丸船員・善六である。2年後、ロシア正教の洗礼を受けて帰国を断念、レザノフの長崎来航の際には通訳として同行したものの、トラブルを避けるためにカムチャッカで下船している。漂着から19年。42歳になって日本の地を眼前にして「私は日本人ではありません」とリコルドに告げ、上陸する。しかし、キセリョフ=善六の出番は、冒頭、リコルドの挨拶を翻訳するところまでであった。「松前奉行所高官の傍らに控えていた役人が、高官の挨拶を流暢なロシア語で通訳したのである」。幽閉されていたゴロヴニンからロシア語を学んだ幕府の役人だった。▽灯油の利権に切り込んだ幕府役人・楢原謙十郎。勘定所支配勘定の楢原は文政9(1826)年冬に江戸の灯油価格が騰貴したことから、翌年大坂に派遣される。従来の油方仕法に問題を発見するが、大塩平八郎を含む大坂町奉行所は非協力。現地の面子をつぶさないように調整し、現地から改革案を提出させる。老中は江戸市場の改革も指示し、町会所掛が改革案を出すが、勘定所主導の改革に町奉行所が異論を唱え、抜本的な改革案は妥協で骨抜きとなるが、既存の流通秩序を尊重しつつ、油寄所を通じて価格をコントロールするものとなった。▽大塩平八郎天保の大飢饉のさなかに水戸藩に米を回していた、という話。少なくとも奉行所側が大塩を貶めるために流したうわさではないようだ。大塩は林家や新見正路に1000両もの大金を斡旋している。鴻池家をはじめ、大坂の町人たちに強いつながりがあった。水戸藩徳川斉昭佐藤一斎を通じて米の斡旋を大塩に依頼したという風説。一方、大坂町奉行所は9月にこそ江戸に米を送っているが、11月には江戸廻米推進令に対し自作米に限定し、12月には江戸町奉行の命を受けて買い付けに来た江戸商人への協力拒否を指令している。そうしたさなかでの蜂起であった。大塩に心酔していた馬借の善右衛門の自殺のエピソードなど、哀しい。▽鎖国下の日本が、鎖国という強力な政策をとったからこそ「帝国」と認識されていた(ロシア・神聖ローマ・トルコ・清・ペルシャムガールとあわせて「七帝国」)ことが漂流民から伝えられていた。▽江戸時代は、庶民がさまざまに意見を具申する社会だった。▽百姓・町人が剣術を稽古するのに熱心で、それが浪士組・農兵として組織されるようになった。▽「ヌートカ湾事件」を機に北太平洋の分割が進み、日本も列強に伍して分割に参加した(択捉以南を日本領として確定していくことにつながっていく)。など、実に興味深い。