おろしや国酔夢譚 井上靖

おろしや国酔夢譚 (文春文庫)

おろしや国酔夢譚 (文春文庫)

異国の地で見聞きしたことを日本に持ち帰らなければと、ひたすら帰国を願い続け、しかし今度は、見聞きしたことゆえに幽閉の後半生を強いられる。江藤淳の解説にある「光大夫のあとにも、実は比較文化的な経験を味い、それをだれにも伝えられずにいる無数の光大夫たちがいる」という一節。情景描写で一番美しいと感じたのは、イルクーツクでアンガラ川の氷が「溶ける」ところだ。「何百という大太鼓が時を同じくして打ち鳴らされたような」「岸辺に来ると、大砲を撃ち出すいんいんたる音に変っている」そして「次第に低いものになって行き、いつか全く聞えなくなった頃から、本格的に春がやって来た」。日本ではありえない川の結氷と解氷。情景ではなく音で、異国の地にいる光大夫たちの、戸惑いとおそらくその瞬間には圧倒されている様子を活写しているではないか。小市や庄蔵などの描写も、それぞれの情況での人の心理や行動がリアリティをもって彫り出されている。傑作。