勝海舟が雄藩連合の共和政治の路線をとっていたのに対し、
福沢諭吉は
小栗上野介の立場、すなわち、将軍を絶対君主とする立場だった。それは、
薩長が攘夷主義だと感じていたから。そして中津
藩士の子として
幕臣への憧れが強くあり、将軍の顧問となって入説することを洋学者としての望みとしていた。『
福翁自伝』だけでは、本人にとって都合のいいところだけなので、わからないのだ。諭吉は武士というものに対する考え方があり、慶応3年の渡米時、原書を買って利ざやを稼ごうとする小野友五郎に対する反発に表れている。それが『瘦我慢の説』につながる。戦争を避けた勝の功績は認めつつ、武士道を破壊した害毒はより大きいと。
静岡藩についても触れている。明治政府に仕える・帰農(帰商)・無禄の家臣としての静岡行きであり、特に覚悟なくなんとかなるだろうと静岡行きを選んだ者も多かったこと、それが悲惨な境遇となったこと、沼津
兵学校(
西周)や静岡学問所(
津田真道)、商法会所(
渋沢栄一)の成功と明治政府からの引き抜き、など。首陽山を静岡、伯夷・叔斉が
静岡藩士、殷が徳川家、周が明治政府と例えた批判は秀逸ではある。外国からの干渉は長州征伐の失敗のときにこそ可能性が高く、そのときになかったのだから、外国は日本の内戦には武器の売却にしか関心はなく、江戸総攻撃のときなどに干渉はなかった、という
福沢諭吉の主張は、はたしてどうだったのだろうか。