河内源氏 元木泰雄

河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流 (中公新書)

河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流 (中公新書)

他の学者への批判も強い。河内祥輔の『保元の乱平治の乱』も読み返してみよう。大石直正の『奥州藤原氏の時代』も読んでみよう。▽「河内源氏の成立」。経基は、藤原忠文と同じ元平親王とのつながりで将門討伐の副将軍となった。▽「「東国と奥羽の兵乱」。前九年の合戦で東国の武士を組織して戦ったというのは誤りで、追討官符を得て動員したに過ぎず、その数も多くなく、清原氏の介入でようやく勝利した。発端は、頼義の離任で安倍氏の勢力が増すことを恐れた在庁官人たちにあると。▽「八幡太郎の光と影」。頼俊の北陸奥征伐(このときの功で鎮守府将軍になったのは真衡ではなく、海道平氏の貞衡だそうだ)で賞がなかったのは、国の印鎰を奪った藤原基通の事件があったからで、基通をとらえた義家の陰謀が背景にあったとする。後三年合戦の最中に頼俊が功を上申するのと、海道平氏出身と見られる武衡の家衡側参戦は示し合わせた、頼俊からのしっぺ返しだと。▽「河内源氏の没落」。義親は白河院側近の宗通(「民部卿」)に仕えていたが、後三年合戦の義家の不始末で河内源氏が経済的に困窮し、成功は対馬守程度しかできなかった。義家死去後の家長代行は、義国・義忠の母であり、嫡男は義忠となった。為義は義親の四男だが、父の反乱の際には京都で義家夫妻のもとで養育されていたのでは、とする。▽「父子相克」。為義の嫡男は、白河院近臣の娘を母とする義朝から義賢に移り、義朝は、関東に下り摂関家領の荘園を足がかりに勢力を伸ばしていく。そして相模守に院近臣の藤原親忠の息子親弘が任ぜられたことから、院に接近していく。さらに上西門院とのつながりから後白河天皇にも近づき、武蔵守の信頼の黙認のもと、長男義平が弟義賢を滅ぼす。