明治六年の政変の前提となった、
西郷隆盛の韓国遣使希望は、体調の悪さに伴う「死に場所を得たい」思いに強く動かされていた。もともと西郷は一般のイメージとは異なって、繊細で策謀タイプでストレスをため込みやすく病気がちだった。そのストレス源が
島津久光の存在。幕末の
薩摩藩は決して一枚岩ではなく、ましてや西郷や大久保の
指導力が卓越していたわけではなくむしろ少数派で、実際に
薩摩藩の動向を決定していたのは国父・久光だった。だからこそ「
薩長同盟」は徴収側の受け止めはともかく、薩摩側は従来方針の域を出ずなおかつ重要とも感じなかったから文書化もせず、久光に報告もしなかった。そのように読んでいくべきだとする。そして
大政奉還後、久光と
小松帯刀の病状悪化が武力討幕派を力づけ、藩の方向を決めていったとする。なお、補論では、
台湾出兵に対する木戸の反対はあくまで植民地化への反対であって、問罪という意味での出兵では、大久保と木戸との間に意見の相違はなかったとしている。