神風ではなく、武士の抵抗により
元寇は防がれた。クビライは、
南宋攻略のための軍需物資としての硫黄がほしかった。
文永の役で襲来したのは九百艘ではなく、小舟を積んでいたので三百艘と読むべき(実際はもっと少なかった)で、
対馬には一日で到着。橋頭堡を確保することができなかったので、冬を前に補給の困難を考え、撤退した。
弘安の役では、5日の合戦は
鷹島ではなく
志賀島であり、東路軍が全軍、
鷹島に移った事実はないと。『
蒙古襲来絵詞』を精緻に分析し、海中に潜む男が
竹崎季長である可能性、奥書きが
偽書であろうことなどを詳細に論じている。高麗が
対馬を日本と認識せずそのため遠征ではあえて記さず、また
対馬ではさほどの抵抗がなく虐殺もなかったのではないかという推測も。要は、『八幡愚童訓』はまったく信用できないということだ。