怨霊とは何か 山田雄司

菅原道真平将門崇徳院を分析。▽国家と関わる形で明確に登場するのは長屋王。都が造られ集住するようになると、疾病がはやりやすくなり人の噂も広がりやすくなった。「怨霊」が意識されるようになる。▽崇徳院には、実際は怨霊になるような記録はなく、五部大乗経も存在が確認できない。保元物語平家物語が成立したころは後鳥羽院の怨霊が意識されていた、その影響。▽近世に向け、怨霊という考えから「怨親平等」の思想が広がる。蒙古襲来の供養の円覚寺島津義弘高野山に建てた「高麗陣敵味方供養碑」、日露戦争の乃木の建てた慰霊碑。松井石根は、熱海に興亜観音を建立した。「しかし、多大な被害を蒙った側からすれば、怨親平等思想を受任するのに抵抗感があるのは当然のことである」。