平安時代の死刑 戸川点

建前としての死刑停止(徳治主義を標榜する天皇や穢れを忌避する貴族)と実態としての死刑執行(武士や検非違使国司)のダブルスタンダード。延喜六年の群盗誅殺は「過状を進らしめ」(日本紀略)というから、罪の認定がなされているはずで、天皇の裁可を経ている可能性も。嵯峨朝弘仁期より後にも死刑が行われていたことに。制度として廃止したわけではなかったということ。また追討行為の際や武士社会など私的法権内では死刑は行われていた。梟首は実態としての死刑である。保元の死刑復活も実は、従来の形だが、京都で行われたので、死刑復活と認識された。寛刑化の流れの中、荒別当と呼ばれた源経成が興味深い。