切腹の話 千葉徳爾

講談社現代新書というメジャーなシリーズとしては、奇書といっていいのではないだろうか。▽横一文字は、深く腹筋を傷つけなければ痛みもさほどでなく、痛みに耐えるという自己顕示は成り立たず、縦一文字は痛いし死に近いから多用されてもよさそうだがあまり例を見ない。十文字に切るのは痛みや横に切った内臓が邪魔して難しい(先に縦に切ると痛みが激しく動きがとれない)など、小説や映画・ドラマでは通り過ぎてしまう箇所を丁寧に考証している。▽まず、切腹はそれだけでは自殺の手段としては不十分だが、平時と戦時とでは精神状態で異なり、戦時では切腹単独でも致命傷となるまで深く刺すことが可能だったこと、はらわたを出すことは、武勇の表われとして中世に見えたが、近世、処罰として切腹が定められると、不満の表われとして忌まれたこと(無念腹)、▽中国の女性の例などから、世界共通に見られる内臓から人間の本性を見ようというところから、証しを立てるという意味合いを探っている。▽現代の農耕儀礼(例えば奥三河の鹿うち)で本物の鹿の代わりに杉の葉で作り、内臓の代わりに白米や餅を使う、つまりかつては内臓を使っていた「少なくとも日本民族にとって両者は代替できる食物とみなされたのであろう」。これは、『歴史のなかの米と肉』的にはどう考えればいいのだろうか。米と肉の関係、差別の関係にも一石を投じないか。投じなかったんだろうな。▽三島由紀夫に触れているのは、自殺から間もないこともあろうが、戦時と平時との別もあり、戦時の女性が行ったことよりも平時の刑罰的切腹しかできなかった三島を揶揄するような表現とも感じられた。決して切腹や三島の行為を認めているわけではない、ということだろうか。