義珍の拳 今野敏

義珍の拳

義珍の拳

松涛館に連なる空手を学んだ者にとってはまさに雲の上の、それでいて、自分は直弟子・弟弟子の謦咳に接することのできた時代。なんともったいない時を過ごしていたことだ。理解は難しいだろう。久保田先生(故人。本書では空手協会の理事=義珍の理想とは反する存在=として一行だけ名が紹介される)に直接接する機会があったが、先生の教えすら、「合気道じゃねえか」と陰で一笑する大学空手部OBの現状では(彼らも久保田先生に手もなく転がされていたのだが、それは手加減していたとでも言うのだろうな)、どんなものだろう。縁あって、儀間先生の筆になる船越先生の遺訓・空手二十箇條が手元にある。「一.空手は礼に始まり禮に終わる事を忘るな」「二.空手に先手なし」「三.空手は義の輔け」・・これらはもとより「八.道場のみの空手と思うな」「九.空手の修行は一生」「十一.空手は湯の如し絶えず熱を與えざれば元の水に還る」ということである。そして「廾.常に思念工夫せよ」である。久保田先生は、かつて著書『武道空手攻究』のなかで、見せる形(本書『義珍の拳』では「型」としているがやはり「形」でないか)と隠された形との位置付けを明確にし、隠された形を探り内地の私たちへも指導せんとされていたが。いずれにせよ、腕立て臥せ40回に難渋する自分には、まず西洋式体育術が先かも。歳だけども、ね。