太平記の時代 新田一郎

太平記の時代 (日本の歴史)

太平記の時代 (日本の歴史)

大覚寺統の傍流から出た後醍醐が、伝統的な勢力を結集できずそのうえに「延喜・天暦」を掲げるように、どうやらこの時代は(いつの時代もそうかもしれないが)、革新が先例や伝統への復帰の形をとって現われたのかもしれない。そして、足利尊氏は、「非・後醍醐」として、結集点となっていく(直義と違って明確な政権構想や思想がなさそう)。先例とは実務の中で揉まれ、不都合のないものとして定着したものだから、確かにいきなり大臣を八省の卿にしても、ではどうやってあいさつするかから始まって、たちどころに行き詰まってしまったのだろう。義満の件でも出てくるが、あり続けているその連続性の中にこそ存続の基盤が見出され、「正統性」が顕現する。南北朝の争いも公家たちにとって、年中行事が滞りなく行われることが最大の眼目で、それでどちらにも仕えたり(ただ、家督争いの関係で片方に深くコミットするとそうもいかない)したことも記されている。案外、天皇制が(天皇家ではなく)続いたのも、続いている、これからも続くだろうという期待や予測、その積み重ねか。そうなのかもしれない。