皇子たちの南北朝 森茂暁

皇子たちの南北朝―後醍醐天皇の分身 (中公新書)

皇子たちの南北朝―後醍醐天皇の分身 (中公新書)

▽元弘の変で「天魔の所為」と言い逃れをする後醍醐天皇尊良親王に対し、さらに泣くばかりで文弱だった尊澄のちの宗良が、後に遠江・北陸と戦い、吉野に戻った後、信濃で亡くなる。歌人でもあった。
▽懐良は、令旨の形式からも武家様になっていくさまが窺われる。例「令旨かくの如し、これを悉せ、以って状す」から「仰に依って執達件の如し」に。義良の北畠顕家・成良の足利直義・恒良の新田義貞のような武家や公家ではなく、五条頼元という事務官僚が選ばれたことは、九州の在地勢力のあり方や、阿蘇・菊地の軍事的地位との関連を指摘している。具体的にどう違うのか、九州各地の諸勢力の対立を巧みに利用していった、ということか。
▽「付 諸皇子の誕生とその母たち」で、護良の母親を亀山の子尊珍(園城寺長吏で元弘の変で流罪)を生んだ女性と同じとして日野経子を挙げている。後醍醐より一回り以上も年上で、祖父の愛人だった女性に手を出すとはなかなか、すごいものがある。阿野廉子は13下ということで、廉子所生の子と比べれば、後醍醐にとって護良は疎ましい存在になったかもしれない。