平安時代軍事制度の研究 井上満郎 吉川弘文館

▼「第三章 軍事編成の研究」が興味深かった。
▽「第一節 将門の乱と中央貴族」平将門の乱に対する中央貴族の対応として、藤原元方(南家)が大将軍にさせられそうになったとき、大将軍の言うことは聞き入られなければならないとして、忠平の子息を副将軍として要求したこと。その前に推問使として下向を命ぜられ随兵を要求して断られたことで下向を延ばし解官された源俊の例をあげているが、元方の対応は、万一東国へ向かわされても、忠平の息がいるといないとではその後のバックアップや現地での状況が全く違うことまで計算していると。さらに北家と南家の同格をさりげなく主張する効果となっている。一方で最終的に征東大将軍を引き受けた忠文(式家)は、国家=北家という状況の下、式家が下風に立つことを意味し、さらに手柄がなかったことで官位の飛躍的上昇という狙いも果たせなかった(恩賞なし)。
▽「第二節 院政政権の軍事的編成」では、院が直接検非違使を指揮したりして武力を養っているが、広範囲に支配を広げるには、京武者の「棟梁」を取り立てて海賊追捕などに起用し、国衙軍制の指揮権を与えていく。こうして確立された棟梁の権力は、自分の支配していた現地では在地まで支配を貫徹できるが、大部分は武士団の長までしか直接命令の対象にできない。
▽「第三節 鎌倉幕府成立期の武士乱行」は、西行の実家を描いて興味深い。西行の兄佐藤仲清は紀伊国田仲荘(藤原忠通領)に根拠を置き、隣の吉仲荘の住人や国衙とも連携して高野山領荒川荘に対する乱行を繰り返す。それは息子の能清の代まで続くが、鎌倉幕府荘園領主と妥協的な政策をとるに至って挫折する。また能清の弟が後藤基清というのも、三左衛門の変、承久の乱での基清の活躍?を考えると、この結びつきはおもしろい。
そのほか、▼「第一章 軍事制度の研究」では、古代日本の軍団は、古代ヨーロッパの武装するのは支配階級の市民という前提と異なり、支配される側が税の形で労役の提供と同じように提供していることを指摘し、
▽「第一節 健児制の成立と展開」健児はよく知られている桓武天皇の前にも藤原仲麻呂のときに筆者の推定では唐の制度を学んだ吉備真備をブレーンに兵士とは別に設けられていたこと(それ以前にも行われたが、一般兵士から選ぶものだった。しかし、古代国家は、蝦夷(そして新羅)と対するために存在しているようなもので、征夷が一段落すると意味がなくなり俘囚を一般の民ではほとんど崩れていた戸籍に編成し兵士とし、(「第二節 俘囚の兵士」)、やがて崩れていく。
▼「第二章 軍事制度の研究」は、
▽「第一節 検非違使の成立」で、当初は民間の神社?を破壊したり賑給したりと国家理念を護持する活動が目立ったが、摂関政治の確立とともに、現実的な軍事・警察活動や租税収取の体系を支えるようになる。
▽「第二節 押領使の研究」では、当初、兵員の移送に携わるものとして多くは国司が任じられ必ずしも軍人でなかったものが、やがて住人が押領使として公権を背景に在地の支配に利用する軍人化していく経緯を。
▽「第三節 追捕使の研究」は、鎌倉初期の守護が惣追捕使と称された理由について、本来は軍事指揮権である大番催促につながる押領使的権限が重要だが、義経・行家の捜索という設置当時の状況から、追捕使が選ばれ、さらに荘園・公領を超えた意味で、惣、がついたと。