「第四章
南朝を支えた人々」の「幻の北
陸王朝」が興味深い。
太平記にしか見えない
後醍醐天皇から
恒良親王への譲位(延元元年=1336)だが、「白鹿」(はくろくと訓むべきと)二年卯月二十日付の文書の存在(白鹿二年は
北朝貞和二年・
南朝正平元年=1346年とする文書も)から、どちらかというと
南朝寄りの発給者が正平年号を使わずに独自の年号を使っていることについて、「
恒良親王の越前下向によって蒔かれた
南朝の亜種勢力がある程度成育し、時として歴史上に姿をあらわし、しかも独自の年号を使用して自己主張したとみなすことも無理ではあるまい」と。
観応の擾乱で直義方だった
斯波高経はその後一時
南朝に属したが、北陸の
新田義貞系と最前線で戦っていた経歴を思うと、なにか伝手などがあったのかも、と思ってしまう。年号使用については、
足利直冬が、貞和年号を使い続け、観応二年三月に幕府系統の
鎮西探題に任ぜられてもやめなかったのだが、貞和七年六月五日付を最後に5日後には新年号を使用して観応二年六月十日付を出している。「この五ヵ日の間にそれまでのこだわりを捨てさせた何事かがあったはずである。しかしそれが何だったのか、明確でない」と。