中世の天皇と音楽 豊永聡美

中世の天皇と音楽

中世の天皇と音楽

▽当初、天皇が奏した楽器は琴で、宇多・醍醐・村上が熱心。ついで一条、堀河と笛となる。幼少で即位する傾向からと推定されている。そして神器なき即位となった後鳥羽は倒幕という目標もあり神的権威を高めるために持ち出したのが玄上(象)という琵琶の霊物であった。以後、持明院統を中心に琵琶を奏し、時には臣下に秘曲伝授するに至るが、大覚寺統の方は、琵琶を学んでも公的にともに奏するときはもっぱら笛にして棲み分けた。それが後醍醐となると琵琶も積極的に取り入れ(琵琶だけでないが)、神的権威の確立に努めている。持明院統庶流の後光厳は、足利将軍家の好む笙を天皇の楽器としたが、宮廷音楽の主導権を将軍家に握られてしまうきっかけとなった。▽天皇の音楽の師「御師(おんし)」は、正式の御師は公卿や殿上人で、中流貴族の家の安定につながった。事実上の御師は地下の楽人で、西園寺家庶流に琵琶の流れが伝わるなど「正式」系の地盤沈下?で正式の御師になるものも。「御師の実像」として藤原貞敏、定輔、大神景光が紹介され、景光は笛一者として、所作人のメンバーでも練習不足や秘曲の送電が定かでないことを理由に異議を申し立てるなど、上皇や貴族の権力にもひるまず法皇の逆鱗に触れて出仕停止になるなど気骨者だったという。▽累代御物は、これまであった楽器が道長と彰子が一条に献じたものあたりから代々引き継がれるべきものとして成立したようだ。