天智の大王後継構想は、天武の跡は葛野・草壁・大津・鸕野(持統)だったが、草壁に
皇位を伝えたい持統の思惑が
壬申の乱を起こした。そのタイミングとして、
新羅攻略への協力を唐から求められた近江朝廷が大量の兵器を渡してしまい、なおかつ東国で
新羅戦用に兵力を集めた段階を狙った。不破をいち早く制圧し、
尾張の兵2万を味方に組み入れた。近江朝廷側は中央豪族の支持もなく、地方豪族層からは離反が相次ぐなか、四方面作戦という不利な状況であったが、河内・大和・伊賀方面では優勢な時期もあった。しかし士気を欠いた退嬰的な戦い振りで結局、惨敗した。天武側の敗れても少数の兵で立ち向かいつづける
大伴吹負と対照的だ。しかし、天武は、こうした戦での功臣に報いるところは少なく、結局、好意的中立だった中央豪族たちを重用して、
皇親とあわせて(「キミーマエツキミ体制」)非常時新政権を運営したのだった。