誤植によるものか、固有名詞の誤りとしか思えない表現が散見されるうえ、ときに文意が通らないことも。編集者はちゃんと仕事すべきであろう。要点としては、
応仁の乱は関東との関係を抜きにしては考えられず、
足利政知の
古河公方制圧に
遠江の斯波氏の力が必要で、
斯波義敏が頼りにならないとして、政知について下向した渋川義鏡の子・義廉を斯波氏の
家督とする、という義政の考えがあった。だからこそ、義廉抜きの上杉方(東幕府方)だけで文明3年、軍事的な優位が見えてきた段階で、「
斯波義廉の存在意義を減少させるものであり、義廉自身および西軍の署将に動揺を与えた」と。そして、義材に代わる将軍後継として義遐が浮上したことから政知は
家督をどう母弟の潤
童子(しかも母は
細川政元の養子・澄之=
九条政基の子=の母と姉妹)に譲り、死後の
茶々丸の乱から
伊勢盛時(
北条早雲)の伊豆乱入につながるとする。