応仁・文明の乱 石田春男

応仁・文明の乱 (戦争の日本史 9)

応仁・文明の乱 (戦争の日本史 9)

誤植によるものか、固有名詞の誤りとしか思えない表現が散見されるうえ、ときに文意が通らないことも。編集者はちゃんと仕事すべきであろう。要点としては、応仁の乱は関東との関係を抜きにしては考えられず、足利政知古河公方制圧に遠江の斯波氏の力が必要で、斯波義敏が頼りにならないとして、政知について下向した渋川義鏡の子・義廉を斯波氏の家督とする、という義政の考えがあった。だからこそ、義廉抜きの上杉方(東幕府方)だけで文明3年、軍事的な優位が見えてきた段階で、「斯波義廉の存在意義を減少させるものであり、義廉自身および西軍の署将に動揺を与えた」と。そして、義材に代わる将軍後継として義遐が浮上したことから政知は家督をどう母弟の潤童子(しかも母は細川政元の養子・澄之=九条政基の子=の母と姉妹)に譲り、死後の茶々丸の乱から伊勢盛時北条早雲)の伊豆乱入につながるとする。