世界史の中の日露戦争 山田朗

世界史の中の日露戦争 (戦争の日本史)

世界史の中の日露戦争 (戦争の日本史)

結局、日露戦争は日本は勝ったのではなく、ロシア側の作戦のまずさによって負けなかっただけで(日本海海戦を除く)、補給は限界の状態でうまくレフェリーストップが入った、というところなのだろう。海底ケーブルのよって結ばれた情報網を活用し、日英同盟によって英米マスコミを味方につけたことが大きく、また、露仏同盟を死に体化させ、フランスをロシアから引き離した。また、補給不足で火力中心というそれまでのスタイルを貫けなかったことで白兵主義に方針を切り替え、多くの犠牲者を出した旅順攻撃の失敗を隠すために乃木をまつりあげた陸軍。日本海海戦の大勝利をもとに東郷を神格化し、1回の大海戦で決着を着ける=短期決戦ということと平時対米7割という長期的な経済力を前提とした方針との矛盾に無自覚な海軍。陸軍ほどではなかったにせよ、電信などが勝利に貢献したことを学ばず、輸送船の護衛にも関心を持たなかった。また日露戦争の結果、英・露仏・独墺という3極対立が英露仏・独墺という2極対立となり、より世界大戦への危険が高まったこと、アジア諸民族の日本への期待は、朝鮮の声を英米マスコミが報じず、日本に好意的な報道が目立ったことによるもので、日本は主観的には朝鮮からロシアを排除し優位を確立するために起こした戦争で、植民地解放にアジアの民衆を鼓舞したのは結果論であった。