奥州藤原氏の時代 大石直正

奥州藤原氏の時代

奥州藤原氏の時代

奥州藤原氏とは、東北独立政権なのか、京都中央の代官的な立場から君臨していたのか。著者は、両側面を「止揚」して考えるべきだとする。奥羽地方に荘園ができたのは、全国的に見ても遅いわけではなく、地方への有位者の下向と郡司などへの土着化、在地勢力との抗争などから、摂関家へ荘園を寄進する動きとなったか。また、奥州藤原氏は長男でなく次男相続の慣行があったのではないかとする。狩猟民や遊牧民は末子相続だが、確かに長子が自立して別に館を構えることは防衛上も得策で、その一形態が次子相続なのだろう。柳之御所跡から大量に出土される「かわらけ」は宴席で一回限り使われる京都色の強い遺物だが、それにも京都風の「てこね」と在地風の「ろくろ」が混在し、渥美焼や常滑焼などは海運があったとしても輸送上のリスクを考慮して、コピー生産の窯でつくられるようになる。平泉は北上川の水運を利用し、武士の需要が高まった馬や鷲羽、日宋貿易の輸出品として重要だった金などを交易して財を築き、京都から工芸品や職人を招き、官司請負の官人たちを招いて統治にあたらせた。