自由か、さもなくば幸福か? 大屋雄裕

国家からの自由が幸福と同一視されていた19世紀モデルは、しかし、自由民権運動が徴兵を逃れようとする庶民への叱咤を伴ったように、必ずしも当初から受け入れられたものではなかった。軍隊が、白い飯を食べられ、ある程度の平等原理を体現したものであっても。教育も、江戸時代、寺小屋には熱心だった庶民が義務教育には抵抗した。「客体」でありたかったのだ。監視によって安全だったり、「お薦め」で便利になったり、まぎれもなく、幸福が実現されていることは否定できない。違うものを排除して安心を得る仕組み。自分は「向こう側」にはいかないという確信があるからできること。しかし、違いを挙げていけば切りがない。また、事後的な対応にとどまる法的規制と異なり、「アーキテクチャ」による、システムとして排除してしまう仕組みをどう考えるか。