京・鎌倉の王権 五味文彦・編

鎌倉幕府は東国国家か、軍事権門か。幕府成立時期を、頼朝の根拠地が固まった1180、東国支配を公認させた寿永宣旨を獲得した1183かをとるのは東国国家。守護地頭設置の文治勅許を獲得した1185か右大将の1190か征夷大将軍の1192をとるのは軍事権門。平氏政権では、1179の治承クーデターをとるか、1167年に平重盛に一般的な賊徒追討権を認めた仁安宣旨でみるか。ただし、仁安宣旨にもかかわらず、治承の富士川のときなどには、従来通り個別の宣旨を獲得し、国衙を通じて駆り武者を集めた(常備軍はなかったが国家的な軍事システムはあった)。平氏政権はこれによりかかっていたが、王権と対立すると、崩される。後白河法皇に資盛召還を命じられた翌日が都落ち。寛喜3年(1231)の宣旨の対象は、「藤原頼経朝臣郎従」と御家人が治安維持の対象となる。頼朝の挙兵で有利な条件は治承のクーデターで知行国主が大きく後退し、目代となるなどで力をつけた平氏家人と従来の在庁勢力とが対立していたこと。頼朝方は「敵方所領没収」という敵殲滅で団結力が強く駆り武者と比較にならなかった。大番役御家人役化して国家的軍事遂行主体とした。御家人役は鎌倉殿に奉仕する恒例役と鎌倉殿が果たすべき職務が配下に転嫁された臨時役とになった。▽各地に散らばった所領を千葉氏や渋谷氏がネットワークを駆使して借上や京下りの文人を使い維持。それが一円領化することでネットワークの必要性が薄れた。▽王権と美術では、大和絵天皇の日常空間、唐絵は天皇の公的空間(紫宸殿など)とに分けられる。女絵や和歌はジェンダーとしては女性。白河院崇徳天皇の関係を示唆する源氏物語絵巻源有仁が請け負い、後白河院政期に反乱を意味する「伴大納言絵詞」=清和天皇や「長恨歌絵巻」「後三年合戦絵巻」が作られる。和歌も逸脱してよい芸術。「諷喩」。男性性の王権を危機にさらさせず王権の聖性を高める役割を担った。

日本の時代史 (8) 京・鎌倉の王権

日本の時代史 (8) 京・鎌倉の王権