源義経 五味文彦

常磐保元の乱の後のことを考えて逃げたが、関東のならいとは違い平氏は女子供まではまでは殺さず常磐も大和宇陀から出てきた。▽義経は義仲を滅ぼした後京都近国の行政鳥瞰的な役割だった。それを1184年3月、中原久経・近藤国平らに権限を奪われた。▽平宗盛の護送を命じられて京を離れている間に所領を奪われるなど西国での基盤を失ったこと。▽頼朝追討の院宣のあと、高階泰経が入道関白の松殿基房を摂政にと一時考えたこと。▽義経の郎党・堀景光後白河院の近臣・木工頭藤原範季のもとに度々訪れた。1176に陸奥守・鎮守府将軍だった。文治元年には北陸宮を擁して動いた。何を?

源義経 (岩波新書)

源義経 (岩波新書)