保元・平治の乱を読みなおす 元木泰雄

保元・平治の乱を読みなおす (NHKブックス)

保元・平治の乱を読みなおす (NHKブックス)

河内祥輔の『保元の乱平治の乱』に対する批判的回答書、という感じ。この本も分量の割になかなか読み応えがある。▼院近臣には大国・熟国の受領を歴任し成功など経済的に奉仕する受領系と弁官・蔵人頭などを歴任する実務官僚系があることは知っていたが、末茂流(家成・成親等)良門流(忠清・清隆等)道隆流(信頼等)が前者、為房流(惟方等)は後者で、両者は截然と区分されていたこと、信西は母の違うふた系統の息子たちにそれぞれのルートで栄達させたことが、従来型近臣の庶流の憤慨を買った、ということは理解し易い。▼また、信頼は後白河院政を停止し、二条親政を支持したが、経宗・惟方らとは、権力をどちらが握るかで対立した、というのも、後白河を閉じ込めておく場所が場所だけに、納得できる。▼悪源太義平が義賢を討った武蔵国の受領国主が信頼で、馬や矢羽の生産地・陸奥もそうで、義朝との結びつきはそこから。義朝と結びついた信頼は保元の乱で武力を失った摂関家の後見的立場として妹と近衛基実との婚姻が成立した。▼信頼が後白河院と結びつくのも保元の乱の後で(その前は美福門院に近かった)、義朝(保元の乱にも熱田宮司=待賢門院=上西門院・後白河のルートで加わる)との関係で後白河に武力として期待され、官位の急上昇があった。▼二条を廃し守覚擁立の為に後白河が信西を殺させた、という河内説は、二条外戚の経宗が陰謀に加わっていること、同母(成子)の以仁王親王宣下も受けておらず、成子所生の皇子を重視していないことから成り立たない。そのほか、保元の乱関連では、鳥羽法皇が死ぬ前に武士を集めたのは規模からしてやはり反乱対策であること、死者の少ないことを持って始めからやる気がなかったとは言えないこと(戦うのは武士だから)などと河内説を批判している。保元の乱平治の乱の背景は、「摂関家恐るべし」という表現にも表されるが、朝敵となってもあきらめて降参せず、東国に落ち延びて再起を図ろうとする義朝など、「自力救済」ということに、落ちつくのだろうか。