北畠親房が、
後醍醐天皇や
後鳥羽上皇に比較的批判的だったことはなんとなく認識していたが、頼朝や
北条泰時の評価から、
鎌倉幕府が
親王将軍を推戴したように
興良親王をかついで自ら幕府的なものをつくろうとしていたのではないか(以前の義良
親王=後の後村上=を戴いての奥州での経験もある)という推測は、なるほど、という感じだ。ただ、鎌倉武士的理解では、当時、
惣領制が崩れ、商人的となっていた武士層を理解できず、一族
一揆・
国人一揆的結合は
南朝では維持できず、足利方の働きかけが奏功した。また、主戦派で、非後醍醐的分権派の親房に対する吉野方の反発が講和派の
近衛経忠の「藤氏
一揆」構想となり、足を引っ張った、という展開である。「
南朝は基本的に中央集権を志向する権力であり、地方への配慮が乏しかった」とする指摘は、
後醍醐天皇の宋を模範とする
天皇専制志向をあわせると、もっともと言える。▼小学生のころ読んだ(今から考えると極めて右翼的な)歴史の本で「吉野の朝廷」(
南北朝ではない)の時代、「
北畠親房の関東経営」という章で、小田城や関城での奮戦ぶりや
結城親朝への誘いかけなどを描いていたことを思い出す。