海から見た戦国日本 村井章介

豊臣秀吉が、名護屋で蠣崎慶広と会った際に狂喜したのは「日本海の岸が蝦夷地・オランカイでつながる閉じた円環をなしていることをよく知っていた」からで、「加藤清正が戦略的にオランカイへ侵攻したことも、豊臣政権が日本海をとりまく地域のすべてを征服しようという構想をもっていたことを示すのではないか」(第2章 蝦夷地と和人地)。▽「琉球禅林を牛耳っていたヤマトからの渡海僧は、琉球国王の臣下であると同時に、あるいはそれ以上に、京都五山の一員だった」として、安部龍太郎の小説にも出てきた「嘉吉附庸説(大覚寺義昭追討の賞として足利義教から琉球を賜った)」や「為朝始祖説」が五山ネットワークから形成された(第3章 古琉球の終焉)。▽また日本銀が朝鮮や中国との交易や倭寇に及ぼした影響(第5章 日本銀と倭人ネットワーク)などは、明の海禁により、華僑のネットワークにポルトガル人や倭人がのり、交易していた様子がよくわかる。それが近世になり、銀の生産高の増大はあったが、鎖国になっていくわけだ。