日本のルネッサンス人 花田清輝

「小京都」。土佐に下った一条教房は父・兼良よりも決断力に富み、約30年後に和泉に下った九条政基よりも割り切って中村に小京都を作った。時代が幸いし、大内に遣明船ルートの瀬戸内海を停められた細川氏の遣明船ルートに中村は位置するようになり、重商主義的公家大名として生き残ったと。土佐一条家は戦国三国司家として有名だが、その背景は(ひょっとして花田一流のフィクションなのかもしれないけれど)気づかなかった。