戦国期の室町幕府 今谷明

戦国期の室町幕府 (講談社学術文庫)

戦国期の室町幕府 (講談社学術文庫)

室町幕府応仁の乱後もそれなりに政府・権力としての実態があったとして、その理由を解明しようとしている。しかし、五山にその権力の特質を見出そうとしても結局応仁の乱後は五山は力を失ってしまう。荘園領主と持ちつ持たれつだった(財源として礼物)、というところに結局は落ち着いているようだ。以下、自分なりに理解した要点を。▽室町幕府が五山など禅寺の東班衆と呼ばれる財務集団に依拠した政権であったこと、そのために禅寺=官寺は荘園も集積し、東寺や延暦寺など古い権門と対立した。こうした権門の荘園の荘官となって年貢の請負なども行っている。しかし、応仁の乱で禅寺も焼けてしまう。▽応仁の乱以降の幕府は、管領代と呼ばれる細川管領家の家臣の第一人者が動かすようになる。▽義晴将軍が京都から逃亡中は、境幕府(義維)が奉行人奉書を出し、古い年号を使って京都を支配する。阿波(三好元長)と摂津(茨木長隆)の国人の連合政権である晴元政権はやがて一向一揆を引き入れた摂津国人が阿波国人と義維を追放するが、やがて保守反動化し荘園領主の権利を守ろうとする茨木は没落、細川氏綱を擁する三好長慶が独裁する。その背景には東寺があった。段米の徴収や町屋への地子課税、撰銭など経済法令の発布など新しい側面もあったが、中世的なものから抜け切れず、検地も実施できず、戦国大名化を阻んだものは、荘園領主であったと。