治承・寿永の内乱論序説 浅香年木

治承・寿永の内乱論序説 (叢書・歴史学研究―北陸の古代と中世)

治承・寿永の内乱論序説 (叢書・歴史学研究―北陸の古代と中世)

第一編 内乱前夜の北陸道
▽第一章「北陸道平氏一門」
内乱前には越前・若狭に続き治承のクーデター後は北陸道はほとんど平氏一門の知行国化した。これは瀬戸内海の水運を重視したのに通じる平氏の戦略か。
▽第二章「北陸道の在地領主層」
越前斎藤氏は検非違使や松殿摂政内舎人(河合系斎藤氏の実景)、滝口、衛門尉など衛府の官人や権門への臣従を明記する京寄宿の在京武者の側面を見せるが、加賀斎藤氏は一部に在庁勢力を含むが本領とする庄郷保の地名に太郎・次郎の仮名(けみょう)を名乗る。
▽第三章「内乱前夜の反権門闘争と白山宮」
仁安元年(1167)、藤氏長者領越前方上庄で保元新制をタテに負担を拒む田堵等に在庁が荷担している。「摂関家の方上庄における収奪に一応の協力姿勢をとろうとする知行国主・国守と、権門による収奪の確保を妨害している在庁との、鮮明な対立を物語るものであり、この段階の越前においては、知行国主・国守の国務知行権そのものが、在庁勢力の抵抗によって強い制約を受けていたのである」。上層百姓が白山宮越前馬場・加賀馬場の寄人化運動を起こし、在地領主層と衆徒・堂衆・神人集団とを巻き込んだ反権門闘争へとつながっていく。
第二編 北陸道における内乱の展開
▽第一章「堂衆・神人集団の反権門闘争」
行学合戦などにみられる堂衆主導型の反権門闘争の熾烈化は、西近江の交通の要衝を住所とする堂衆集団や交通体系の主要な担い手となっていた神人集団を介して白山宮越前馬場・加賀馬場の衆徒・堂衆・神人集団にも影響を及ぼす。北陸道南西部の中小在地領主は、平氏一門や郎等で占められた知行国主・国守・目代といずれに荷担するかを迫られる。
▽第二章「近江・北陸道における『兵僧連合』の成立」
本来階級的にきびしい対立関係にあるはずの、上層百姓の政治的共同組織である衆徒・堂衆・神人集団と在地領主層とが一時的に共闘の姿勢をとり、集団の統制勢力のなかに身をおく在地領主層出身の軍事指導分子が兵僧連合の核としての役割を発揮するためには、在地において広汎な反権門・反国守・反領主の抵抗運動を展開・持続している必要がある。在地領主の側にも差し迫った政治情勢の転換がなければならない。近江の反乱の最盛期(治承4・1180年)に伊賀から平氏与党が(12月1日)、京から追討使・知盛が(2日)、という動きの中、山本義経の主唱による兵僧連合の共同行動が実現する(玉葉)。内乱初期、北陸道南西部は特に義仲とのつながりは実はなく、燧城を固めて追討使・通盛を迎え撃ったのは、北陸道南西部の在地領主層と衆徒・堂衆・神人集団。平氏の追討に対して能登・加賀・越中の在地領主層ははじめから結束していたが、越前は複雑で、屈折・分裂している。最明たちのとった官兵に対する突然の反逆行為も、大野郡に乱入した加賀馬場の圧力を受けて同調の姿勢を固めた越前馬場の石に突き動かされた越前における兵僧連合形成の表現と理解できる。
▽第三章「義仲軍団と北陸道の『兵僧連合』」
この論文の白眉だろう。
▼「義仲軍団の成立と反乱の屈折」
寿永元(1182)年以仁王の遺児三宮が乳母の夫(実は九条兼実に近い)の計らいで北陸道の反乱軍に保護される。一方、この春以降、義仲に所領安堵を求め反乱の成果を源姓の軍事貴族の末裔に引き渡そうという動きが見え始め(越中)、三宮が迎えられたことは屈折を進行させた。最明の反乱軍離反・追討軍復帰は反乱軍の義仲軍団化をめぐって生じた在地領主層と衆徒・堂衆・神人集団との亀裂の屈折した表現と見なすことは不可能ではない。反撥が、彼らの持つ寺院権門の奉仕者集団としての本質を表層に浮上させた。結果、越前・加賀を駆け散らされて越中に亡命した在地領主層は、前年からの越中にならい、義仲に所領の回復・反乱態勢の債権の手段を求めるしかなくなった。信濃や越後南部の在地領主層とこれまで近江とつながりを持ちながら独自の反乱を展開してきた北陸道南西部の領主層とが結合し、第一次義仲軍団の成立。
▼「義仲軍団の入京をめぐる政治情勢」
頼朝が上洛できない理由として挙げた二番目、「率数万之勢入洛者、京中不可堪」は義仲も考慮しなければならなかったはず。①延暦寺の衆徒・堂衆・神人集団との間に太い結びつきがあり、その連繋に行動は強い規制を受けた。鎌倉と並立する地域政権とせずに策謀と飢餓の渦中の京に直進させた。②行家の持つ強い畿内志向性③越前斎藤氏にみられる権門勢力への顕著な臣従は、上総介広常のような意識は極めて希薄。義仲軍団は入京当初から鄯権門勢力から独立した政治勢力とはみなされず、頼朝の一与党と評価されたこと鄱兵僧連合だけでなく、相伴源氏群が寄り集まり、国守級軍事貴族の参加(義仲軍団の二次的な拡大)で義仲の統制力がさらに弱まった鄴権門勢力から十分な兵粮料所を与えられなかった、という3点の弱点を抱えていた。鄱の結果、首脳部に木曽党や北陸道南西部の兵僧連合の構成勢力が登場しなくなった。
▼「『寿永二年十月宣旨』と北陸道
北陸宮の擁立に失敗した義仲は、師家を権門勢力の中枢に据えることに狂奔していた前関白基房に接近する。義仲に渡された平家没官領は、現実には西海や相伴源氏の本拠地などが多く、兵糧を確保できない。法皇の掌握下におかれている没官領を入手するしかなかった。山陽道出兵も西日本一円の平氏一門や家人・与党の所領を確保することに最大の目標が置かれた。寿永二年十月宣旨は、いったんは北陸道を含んで出され、その後一ヶ月ほどの間に北陸道を除いた宣旨が改めて出された(閏十月九日)。義仲の帰京直前。
▼「義仲のクーデターとその限界」
義仲は山陽道から帰国後の閏十月十九日、行家・光長以下の相伴源氏を招集して、院と公卿を具して北陸へ向かうと持ちかけ反対される。評定を機に相伴源氏は近江の山本義経甲賀入道成覚を除き、ほとんどは権門勢力の爪牙となり、一部は頼朝に接近する。十一月十九日のクーデターは基房との連繋で行われ、当日夜、基房は義仲と合流。これは北陸政権構想を完全に放棄したことを意味せず、北陸道法皇を拉致するための準備工作だったのが、結果的に傍流の基房と組んで若年の師家を摂政とする政権奪取に屈折した。天台座主明雲を殺したことは「兵僧連合」を崩壊させ、北陸宮擁立の申し入れの使者も務めた俊尭を強引に新座主にするが何の力もない。
▼「義仲軍団の崩壊と北陸道の在地領主層」
法皇は、西国に移動する計画があり、義仲の唐突な相伴源氏に対する評定は急遽の対抗措置。大夫判官斎藤友実(河合系斎藤氏)は、北陸道南西部の反乱に参加して入京の後、クーデター前後に義仲から離れたもののそのまま京都に寄宿を続け、権門勢力の爪牙(好きだね、この表現が)となり、さらに入京後の坂東の軍団に接触し範頼または義経の麾下に転じた。仁安2(1167)年には右衛門尉、翌年検非違使官人。最後は義経の家人であった庄四郎に謀殺される。友実は仁和寺守覚法親王へ臣従しつつ、在地では仁和寺領の濫妨含め、内乱を機に果敢に領主支配を拡大。権門への臣従は権門勢力の庄務を押妨するためのひとつの手段となっていた。
▽「むすび」義仲軍団は、義仲や相伴源氏と兵僧連合との対立関係と、兵僧連合を形成している領主層と衆徒らの集団との対立関係という二重の対立関係を内在させていた。それぞれが権門勢力への臣従・奉仕の姿勢を充分に克服し得ていないなかで京に駐留して権門勢力と共存を図ることは、対立を一層深刻化させる。反乱の蓄積によってかなりの程度に具体化していたはずの北陸道南西部における地域政権形成の可能性を早々に消滅させてしまった。
第三篇 北陸道と鎌倉政権
▽第一章「義仲軍団崩壊後の北陸道
鎌倉殿勧農使・比企朝宗北条時政の支配は、かえって荒廃させた。
▽第二章「承久の乱北陸道
鎌倉政権による東国御家人の入部・進駐に対する在地領主の危機意識(地元領主層による庄郷地頭職の知行例が極端に少ない)、北陸道全域で達成された京の権門勢力による国務知行権の回復などにより、承久の乱の際には京方の基盤の一つとなり、同族が分裂した。林系斎藤氏は、朝宗の代官平太実俊の入部で領主支配の拡大を阻止された板津介成景の孫・板津小三郎家景が京方に同調することを拒否し、攻撃を受けている。
▽第三章「衆徒・堂衆・神人集団と鎌倉政権」
近隣領主層による長吏職、本宮神主職の争奪など。