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義経の場合、自らの恩賞なしでは動かない東国武士ではなく、義仲や平家と遺恨のある京武者を糾合しすみやかに勝利を得たが、そのことが恩賞目当てで当ての外れた東国武士たちにとってはおもしろくなく、
平信兼の息をだまし討ちにし、
多田行綱の没落を止めることができなかったことで、京武者からも失望を買い、没落していった。▽頼朝との決定的な対立は、
検非違使補任ではなく、院御厩司就任であり、伊予守補任にもかかわらず
検非違使に留任したことで、院独自武力(豊後や平泉ともつながる)の一端となっていったことによる。▽
義経の周りには、範頼の養父とも目される藤原範季(息子の範資が鎌倉
御家人を率いて
義経を追撃する、というのも複雑)というくせ者に加え、『
玉葉』で自ら
知行国・豊後に下るエピソードで知られる藤原頼輔が実は豊後の緒方氏などを従え後白河武力の一端を担っていたことなど、実に複雑な人脈がうごめいていたようだ。