▽頼義の時代は、関東は貞盛流
平氏や秀郷流
藤原氏による分割はほぼ終わり、京武者であった源氏は、受領として王朝的武威を背景に、
促成栽培的に成長し勢力を伸ばしていく。▽前九年合戦後の、
清原氏の動き、とくに海道小太郎を養子にとる真衡の動きは、奥六郡を中心にまとまろうとする
安倍氏に対し
清原氏の外的拡大志向、血縁拡大志向を示す。▽前九年合戦と後三年合戦は、結果的に後三年は私戦とされたが、
陸奥守という公権を背景に、家人も
三河出身の助兼のように「禎仗」という
鎮守府官人の肩書きを有し、私権の公権化、公権の私権化を実現した。頼朝の
奥州合戦では、鎌倉殿という全くの私的立場で戦に臨んでいる。▽
足利基氏側近の手になると見られる『源威集』では、征夷の話しが中心で、『
源平盛衰記』「剣」が
平氏討伐を中心に据えるのと大きく異なっている。