源平の争乱 上杉和彦

源平の争乱 (戦争の日本史6)

源平の争乱 (戦争の日本史6)

▽源平の争乱とは、さしあたりの定義として「一族の統率権と所領経営をめぐって利害を競合させる武士相互の闘争が、皇位の継承をめぐる朝廷内部の政治闘争と結びついて全国規模に広がった戦争」と示されている。なるほど。高倉系=平氏、二条・以仁王系=源氏という理解でいいのだろうか。後白河は当初、高倉系だったが治承3年のクーデターで一気に、ということか。各地に平氏知行国ができ、目代として平氏の家人が下って、在地の武士を圧迫したことが蜂起の背景としてよく指摘されているが。▽一ノ谷後の義経の対平氏戦派遣は、範頼の苦戦による頼朝からの命令ではなく、かなり自主的な判断で、後白河からの命令で動いていると。へえ。▽義経の伊勢・伊賀とのかかわり(特に義仲戦では、これらの武士を率いていたと)を指摘している(元木泰雄源義経』にも同様の記述があったように思うが、時期が近接しているせいか、参考文献としては挙げられていない)。▽ところで、法住寺合戦のくだりで、「天台座主明雲法親王」(p170)とあるのは、これでいいのだろうか。